三上芳宏・四塚利樹『ヘッジファンド・テクノロジー』
(東洋経済新報社)
はじめに
1980
年代中頃から90年代を通じて、金融・証券の世界では壮大な革命が進行した。一般の人々にはほとんど目につかず、金融専門家でもリアルタイムで全貌を知っていた者は少ない、深く静かな革命である。この時期、そのフロンティアにあった欧米投資銀行やヘッジファンドは、スワップやオプションをはじめ、多種多様な金融商品のトレーディングを通じて、巨額の利益をあげた。そしてこの過程で、数々の先端的・実戦的な派生商品技術、トレーディング戦略やリスク管理手法が開発されたのである。このような金融テクノロジーは、当初は門外不出の秘密兵器としてその存在すら隠された。学術誌の論文などとして発表されたのは、しばしばかなり後になってからのことである。しかも、そのような形で伝えられる知識は最も抽象的なレベルの「形式知」であり、数式やデータの形にならない「暗黙知」を含めた、このビジネスに必要な知識の総体は、そう簡単には拡散しない。このため、日本のディーラーやファンド・マネジャー、そして企業財務担当者から見ると、金融技術には常にどこかミステリアスな雰囲気がつきまとってきたのである。
日本のメディアでは、金融技術の分野で日本は欧米に圧倒的に遅れており、当分は追いつけないという論調がよく見られる。これに対し、金融技術の基礎となる確率過程論などの分野で日本人の貢献が大きいことを指摘し、反論する声もある。たしかに理論モデルを数学的世界の中で操作する能力において、日本人が見劣りするとは思えない。
しかしながら、ビジネスにおける知の創造は、理論と現実、「形式知」と「暗黙知」の間の絶えざるフィードバックによって進むものである。現実を抽象化して作ったモデルで実際にトレーディングをおこない、そこでの成功・失敗をもとにさらにモデルを進化させる、という試行錯誤のサイクルを繰り返さなければ、自前の技術は生まれない。日本の金融業界では、政府によるさまざまな規制・介入のせいもあって、こうしたフィードバックに基づくダイナミックな金融技術の発展が進まなかった。この「失われた
15年」の間に、欧米投資銀行やヘッジファンドではどのようにして金融技術が創られてきたか、現場で創造に携わった者としてそのダイナミズムを伝えることが、本書の目的のひとつである。金融ハイテク技術に対する信仰は、
1998年後半におけるロングターム・キャピタル(LTCM)の破綻とグローバル金融危機を契機として、やや一服した感がある。この時期は、ハイテク・トレーディングを展開する投資銀行・ヘッジファンドにとっては受難の季節であった。しかし、本書で詳しく述べるように、98年の危機は金融技術自体の欠陥によってもたらされた訳ではない。投資家や金融機関、そして多くの運用者が過去の成功体験に呪縛され、乏しい投資機会に過剰な資金を集中させたために起きたものである。危機の教訓を生かす一助にすべく、本書では、秘密のベールに包まれたヘッジファンドの投資戦略を詳細に解説する。レバレッジの意味や債券アービトラージの手法を理解せずに、
LTCMのようなタイプのヘッジファンド(「相対価値ヘッジファンド」)を理解することはできないからである。正確さをなるべく犠牲にしないようにしながらも、直観的なわかりやすさを心がけたつもりである。グローバル危機の性質と波及メカニズムについても、独自の分析が含まれている。危機の最大の教訓は、適切なリターン評価とリスク管理が重要だということである。冷静に分析してみれば、「相対価値投資戦略」には依然として大きな経済的意味があり、グローバル危機後にみられる投資機会は、危機直前と比べればはるかに魅力的なものとなっている。投資銀行やヘッジファンドの金融技術も有効性を失った訳ではなく、危機に対処するための新世代リスク管理法も開発されつつある。本書では、こうした金融技術のフロンティアについても随所で触れ、とくに第
4章では最新のテクノロジーを一部紹介している。本書は、基本的にはデリバティブの知識を前提としてはいないが、金融・証券市場について日頃から強い関心を持っている人々を読者として想定している。ヘッジファンドに関する書物は次々と出版されるが、ノウハウや投資戦略など肝心の部分について明確な説明をしたものはなく、飽き足らない思いをしている読者は多いであろう。本書の中には、類書にはまったく見あたらない内容が多く含まれており、とくに資産運用ビジネスの関係者、金融機関のディーラー、一般企業の財務担当者などには、おおいに興味を持って読んでいただけるものと考えている。
本書の内容については、ふたりの著者が共に全体について責任を負うものである。本書で使われた図表や計算結果は、(株)シンプレクス・テクノロジーのスタッフ、とくにタマー・カメル氏、エイブラハム・トーマス氏、および小川勲氏(横浜国立大学大学院)の協力によって作られた。ここに記して謝意を表したい。